ゴジラ

2021年令和3年 豊原功補 ゴジラ

2021年令和3年 豊原功補 ゴジラ

ゴジラに対して戦術核兵器使用を強硬に迫る米ソの特使に対しては、非核三原則の遵守を盾にこれを拒否します。

本作で初めて映画プロデュースに挑んだ豊原は、芋生のことを「令和においては非常に貴重な女優」と絶賛。同じく、本作のアソシエイトプロデューサーとして名を連ね、自身も女優として活躍し続けてきた小泉も「『青春の殺人者』の原田美枝子さんとか、そういうたくましさや強さが見える。こういう女優さんに久々に出逢った」と、儚くもありながら、どこか力強さを感じさせる、芋生の世界観に魅了されたようだ。タカラ役を芋生に演じてもらうことに一番のこだわりを持っていたという外山監督は、「クランクインする前に「芋生しかいないと思って(脚本)書いたから」とアテ書きするほどの期待を寄せていたとか。
日本映画を担う若手俳優として一身に期待を背負い、W主演として本作を引っ張っていった村上からも、「(タカラ役は)芋生さんしかいなかった。」「この映画の魅力」と、共演者として最高と言える賛辞が贈られている。

1991年12月14日に公開された「ゴジラvsキングギドラ」は、ゴジラシリーズの第18作。中川安奈さんや豊原功補さんが主役を務めました。ゴジラシリーズには珍しい、タイムワープが物語の基軸となっています。
黄金の三つ首竜「キングギドラ」は、1964年の作品「三大怪獣 地球最大の決戦」で初登場した、ゴジラシリーズを代表する怪獣のひとつ。福岡、広島、新宿と破壊される都市が広範囲におよんでいるのも特徴です。

未来人から「ゴジラによる核汚染で日本が死滅する」と聞かされ、タイムスリップしてゴジラを抹殺するという彼らの計画に乗ります。

本作に登場したのが、小林桂樹演じる三田村清輝総理です。当初、三田村総理はパニックを避けるため、ゴジラの存在を国民には伏せていましたが、ソ連の原子力潜水艦がゴジラに撃沈され、米ソの緊張状態が高まったためゴジラの情報を解禁します。

国内外で活躍する外山監督、俳優として第一線で活躍し続けてきた豊原と小泉、そして同世代である俳優として実力を認められる村上。あらゆる人物から賛美の声が贈られる女優・芋生悠が、本作で一体どんな芝居を見せてくれるのか…ぜひスクリーンで確かめて欲しい。

しかし未来人の本来の目的はゴジラの代りに怪獣キングギドラを誕生させ日本を破壊することでした。それを知った林田首相は怒りを露わにします。

「ゴジラvsモスラ」は1992年に公開されたシリーズ第19作で、観客動員数420万人を記録しました。モスラは1964年の「モスラ対ゴジラ」に登場した怪獣で、ゴジラシリーズに欠かせない存在です。ゴジラとモスラ以外にも、バトラが登場します。
ファミリー層に向け、人間ドラマに重点が置かれた作品。また環境破壊や家族愛などテーマ性の強い作品でもあり、歴代ゴジラシリーズのなかでも高い評価を得ています。もちろんバトルシーンも見どころで、当時開業直前だった横浜ランドマークタワーが破壊されたり、大観覧車「コスモクロック21」が武器に使われるシーンは圧巻です。

次作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』でも五十嵐総理は現職。インファント島の小美人の警告を受けた中條博士の機龍凍結案を真摯に受け止めるも、モスラがかつて東京を破壊した怪獣であること、ゴジラへの対抗手段が機龍以外にないことから、態度を保留します。

しかし死期が迫りながらもゴジラに挑むモスラの勇姿を見て、「この戦いをゴジラとの最終決戦とする」と機龍の出撃を決意します。五十嵐総理は元々ゴジラ駆逐後、機龍を廃棄するつもりでいました。

ゴジラシリーズをはじめとする東宝特撮映画に数多く出演した水野久美によって、作中の日本と怪獣の歴史が語られる様は非常に説得力があるもので、このキャスティングは見事という他ないでしょう。

最終的に三田村総理は、「もしあなたがたの国に、アメリカとソ連にゴジラが現れたら、その時あなた方は首都ワシントンやモスクワでためらわずに核兵器を使える勇気がありますか」と米ソ両国の首脳を説得。毅然な態度を見せました。

ゴジラシリーズに初めて総理大臣が登場した作品が、1984年に公開された『ゴジラ』。本作は『日本沈没』(1973)以降の東宝パニック特撮映画の流れを汲む作品で、竹内均や田原総一朗など、各分野の専門家を招きリアリティを重視した怪獣映画となっています。

2020年令和2年 渡辺謙 ゴジラ 発音

2020年令和2年 渡辺謙 ゴジラ 発音

井上:さっきの、造反して赤バスから足立正生さんを追い出したその後の話をしてくださいよ。若松プロ史観では結局、赤バスを乗っ取ったけど、どうにもならずに埼玉の空き地に乗り捨てて、ずっとあちこちに逃げ回っていて、プリントもどこに行ったかわからなくて、東京に戻れないから軽井沢のラーメン屋で働いていたという。
森:それって連合赤軍のエピソードにちょっと通じるよね。彼らも転々と山岳ベースやアジトを行き来しながら、東京でラーメン屋で働いたりしていたらしい。
荒井:若松さんの命令で日本刀を持って日芸の芸闘委の行動隊長だった岩淵進が博多に来るという情報があって、鉄パイプ用意して待ってたんだけど来なかった。で、東京戻ったら若松プロを襲撃するかという案も立てたの。でも新宿で遭遇するのもいやだなと思っていた時にバスに乗っていたひとりが軽井沢で住み込みでラーメン屋をやらないかという話をもって来た。それに乗って斉藤博と4人かで行ったんだ。ラーメン屋とあさま山荘の間に、セブンツーという大きなゴルフ場があって、ある日、黒いベンツが2台止まったんですよ。そこで斉藤に「俺、やくざ嫌だから、やくざだったら断れ」って言ったの。そしたら入って来たのが若松孝二なんですよ。ゴルフ場帰りで。後年、連合赤軍の映画を撮る人が事件から半年くらいに隣のゴルフ場でヤーさんとゴルフをやってたんだよね。一瞬、固まったな。
森:それって偶然?
荒井:偶然。それで向こうも、あいつら、こんなところで落ちぶれてラーメン屋をやってんのかって思ったらしいんだな。同情心が湧いたらしい。こっちは固まってどうしようと思っているのに。そしたら、「荒井、ちょっと来い」って言って、殴られるかと思ったら、こっそり耳打ちするんだよ、「あの連中、ヤーさんで金持ってるからボッていいぞ」って。「若松さん、ラーメンでどうやってボルんですか」って聞いたら「つまみ出してつまみで金のせろ」とか言って(笑)。
井上:だって若松さん、荒井の腕を取るってゴールデン街を日本刀をもって歩いていたんでしょ。そうやって言いながら若松さんらしいエピソードだよね。
荒井:メンマとチャーシューのつまみで少しボったけどね(笑)。
白石:それでラーメン屋はそのタイミングでやめたんですか。
荒井:いやシーズンの商売だから軽井沢に赤とんぼが飛ぶようになって、どうしようかなと思っていたら、若松さんが「帰って来い。助監督いないから」と。それで斉藤博が先に帰って、俺はギリギリまで粘っていたんだけど、帰って、それで若松さんは『濡れた賽の目』(1975年公開)を撮るんだよ。要するに足立さんがいないからホン書く奴がいないから書けって。この間、ネガが見つかったんだから、イベントをやる時に上映すればいいのに。プリント焼く金出しても日活のプリントになっちゃうんだから、日活から買い戻せばいいんじゃないの。日活が持っていてもしょうがないんだから。そしたらDVDにもできるし、商売にしようがあるじゃない。
井上;当時だから脚本は出口出のクレジットですよね。そしたら荒井晴彦の幻のデビュー作っていう売りにしても大丈夫ですか。
荒井:いやあ、それは恥ずかしいな。
井上:森さん、その『濡れた賽の目』ってまだ状況劇場にいた根津甚八さんの初主演作なんですよ。
森:唐十郎さんが監督した『任侠外伝 玄界灘』(1976年)で、スクリーンに映る根津さんを初めて観ました。それが根津さんの映画デビューだと思っていたけれど、その前に若松さんが撮っていたんですか。
荒井:初めてなんじゃないかな。で唐さんにギャラ百万とか言われて、「吹っ掛けすぎじゃないの、喧嘩しよう」って言って、若松さんと二人で、唐十郎をゴールデン街中さがして、結局ふたりで酔っ払って倒れてたけど。
井上:しかも『濡れた賽の目』は1972年に撮っているんでしょ。製作費がかかりすぎてオクラになっていたんですよね。
荒井:何かの裏ルートで日活に買ってもらったんだよ。
白石:ますます見たいなあ。
荒井:しかも日活では田中登の『秘色情めす市場』(1975)の併映だったんだよ。もう、失礼しましたっていう感じで、俺、打ちのめされました。
森:『秘色情めす市場』は圧倒的な傑作です。そういえば小室等さんから、ゴールデン街で状況劇場と天井桟敷が毎晩のように喧嘩していた話は聞いていたけれど、若松孝二もそこにいたのか。
井上:若松プロと状況劇場もけっこうやっていたらしいですよ。
荒井:足立さんが空手をやっているからね。
森:足立さんも喧嘩っ早いんですか。
荒井:けっこうやっていたんじゃないかな。
井上:でも若松さんって意外に喧嘩やってないんですよね。
森:崔洋一さんが、本気で喧嘩したら一番怖いのは、俺でもゴジでもなくて若松さんだって言ってた。
荒井:うまいんですよ。道具を持つのも。飲み屋で呑んでて、すっとその辺の灰皿を取って頭にボーンと行くからそれは勝ちますよ。先手必勝って言っていたけどね。喧嘩ってそうなんだって。
森:それはたしかに実戦的だ。
白石:それはもうやくざの喧嘩の仕方ですよ(笑)。

劇中の米軍の説明によると、米軍はMUTO出現以前から、怪獣の存在を認知していたという。世界最初の原子力潜水艦の航行中に、初めて海底に生息するゴジラを発見したらしい。
ここで本作のオープニングの意味が分かるのだが、なんとビキニ環礁などでの米軍の核実験というのは、じつはゴジラ殲滅作戦だったことが明かされるのだ。だが、放射能はゴジラの食料でもあるため、どうやら作戦はただゴジラの力をより強化する結果に終わってしまったようだ。このアイディアは、ギャレス・エドワーズ監督自身によるものらしい。
例えばマイケル・ベイのトランスフォーマー映画などでも、歴史的なイベントの真相をでっち上げてエンターテインメントに奉仕するようなシナリオが見られるが、このような描写は、作品を現実の問題から遠ざけ混乱を与える要因になるため、避けるべきだろう。ことに本作は、それこそが作品のテーマに深く関係しているため、ここはテーマをスポイルしていると指摘されても仕方が無い部分だ。

ここで大事なのは、ギャレス・エドワーズ監督や脚本家たちは、必ずしもこのような日本の問題をもって、日本そのものを責めているわけではないということだ。
事故を意図的に過小評価し、原発政策を推し進めているのはあくまで現在の日本政府や一部の企業であって、日本人すべての総意ではないはずだ。アメリカ政府も同じ罪を犯していることを、作品内で内省しているし、核兵器を人間に対して使用したのはアメリカなのだということにも、映画の中で多からず言及している。
この映画が問題にしているのは、日本への批判というよりは、核の脅威と、それに頼り破滅に向かう、日本やアメリカを含めた世界中の人間の愚かさであろう。
東宝第一作の芹沢博士という登場人物は、「オキシジェン・デストロイヤー」を開発し、その使用に苦悩したり、ラストに偉業を成し遂げることで、物語のなかでゴジラと同等か、それに次ぐ存在であったが、本作において同名で登場する、渡辺謙演じる「芹沢博士」は、怪獣研究を通し、市民を守ろうとするアメリカ軍にいろいろとアドバイスをするのみで、「両者を戦わせてみたらどうですか」という、とくに発明でも何でもない、非常にアバウトな説を提唱するだけなのには、だいぶ拍子抜けしてしまう。
だが、「MUTOとゴジラ、どちらも殺す」というステンツ提督に対し、そうではなく自然の力に任せ、調和をするべきだと説く芹沢博士の思想というのは、自然を克服しコントロール下に置こうとする西洋のスタンダードな自然観に比べて、自然そのものから意志を感じ取り尊重するような、日本を含めた東洋思想の、アニミズム的な畏怖心を、最大限に尊重しているのである。

『GODZILLA ゴジラ』の脚本の完成までの過程は、非常に複雑で面白い。
デヴィッド・キャラハム(『エクスペンダブルズ』)の第一稿を デヴィッド・ゴイヤー(『ダークナイト』)が直し、新進の脚本家(映画監督でもある)マックス・ボレンスタインが成立させる。さらにドリュー・ピアース(『アイアンマン3』)がブラッシュアップさせ、このように4人の脚本家たちが最終形として完成した脚本を、さらにフランク・ダラボンが改変したといわれる。
最終的に、脚本家としてクレジットされたのはボレンスタインだということから、おそらくは彼の執筆した部分が最も多く作品に反映しているのだろう。彼は東宝で撮られた全シリーズを鑑賞し、研究したといわれている。
少なくとも脚本家達は、アメリカ向けではないオリジナルの東宝第一作の『ゴジラ』を、しっかりと鑑賞して、本質部分をつかみとっているはずだ。そもそもオリジナルの『ゴジラ』は、「ゴジラは水爆そのもの」というセリフがあるくらい、反核テーマが誰の眼にも分かりやすく簡潔であるため、誤読の余地が少ない。
さらに、脚本執筆の現場に出演者の渡辺謙が通い、無償で様々なアドバイスを行ったという。
脚本の最後の改変を行ったというフランク・ダラボンは、彼自身のインタビューによると、いわゆる「初代ゴジラ原理主義者」で、エメリッヒ版はもちろん、東宝のその後のシリーズ全てを認めておらず、ゴジラ・シリーズは2作目以降から堕落の一途を辿ったと思っているということが分かる。
そして、完成した脚本を基にした映画からは、オリジナル版を、第五福竜丸に被害を与えた核実験、そしてその背後にあった、広島・長崎の原爆投下による、日本人の恐怖と悲しみの記憶が根底にあるということを理解した上で、今回の作品でも重要な要素と考えていることが伝わってくる。
1億6千万ドル(160億円以上)の予算をかけたアメリカの娯楽大作映画で、そのような内容が扱われているというのは、それだけでも相当驚くべきことだといえる。
しかしそれにも関わらず、本作の最終的な基本線は、「ゴジラ対××」のような、怪獣同士の対決を描いている。つまり、第一作でなく、その後の分かりやすく娯楽化された、東宝のゴジラシリーズの要素が中心になっているのである。
そのような怪獣の対決と同時に、オリジナルの『ゴジラ』の印象をも強く残そうとしているのだ。これは非常に難しい試みではないだろうか。
そのような試みが、果たして達成されているのか。作品の演出や場面を追っていきながら検証していこうと思う。

とくにサンフランシスコで、高層ビルが倒壊する際の粉塵とともにMUTOのオスとメス邂逅するヴィジュアルは、本作の白眉だ。
我々は、ニューヨークの貿易センタービルが倒壊した「911」のニュース映像で、高層ビルが崩れ落ちるときは、ここまで噴煙、粉塵が巻き起こることを知った。
ここで思い出されるのは、東宝第一作の『ゴジラ』で、広島・長崎や、東京大空襲の後の光景を、ゴジラの被害というかたちで、そっくりそのまま映像化したようなことと、同じことをやっているということだ。
ラストで野球場に被災者が集まる光景が用意されているが、これも、子供達が放射能検査を受けていた、東宝第一作同様に、放射能怪獣襲来の後はただじゃすまないということをしっかり表している。
エメリッヒ版のように、怪獣を倒してみんなで「YEAH!!!!」と拳を振り上げて、何も考えてないかのように無邪気に歓声を上げるような、呆れるようなくだらなさというのは無い。
ちなみに、本作はエメリッヒ版同様、フルCGにてゴジラの動きを表現しているが、単純にCGアニメーターが動きを振付けたわけでなく、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのゴラム役や、『キング・コング』のコング役などで、CGを駆使しながらもモーション・キャプチャーによってリアリティと重みのある身体表現を行っていたアンディ・サーキスが、本作でも「中の人」として活躍している。
CGに、東宝シリーズの着ぐるみ感をハイブリッドしたようなゴジラの身体表現と、そこから感じる感情は、ゴジラを表現する上で、現状最も合理的で効果的なものだろう。

本作では、ジャンジラ原発の原因が、じつは怪獣の出現にあり、その秘密を隠しながらさらに、秘密裏に怪獣を隠して研究していたという描かれ方をしている。これは、どういう意味だろうか。
日本政府や東京電力は、現在も続く原発事故の収束に向けて、他国からの協力を拒否し、事故をとにかく内密に、過小に見せようとしていることは周知の通りだ。最近では、首相が「汚染は完全にブロックされている」と、世界に向け宣言している。
そのような態度は、諸外国から見ると、秘密主義的に感じるだろうし、懐疑や陰謀を感じても不思議ではない。
この「本当は大変なことになっているんだけど、ひた隠しにしているんじゃないか」という疑惑が、そのまま、ジャンジラ原発の描写になっていると考えると分かり易いのではないか。
この『GODZILLA ゴジラ』における秘密主義的な日本の描写は、この問題に対する、外部からの意識の反映だといえよう。監督自身、インタビューにおいて、「日本の問題を描いている」と発言している。
フランスの女優、ジュリエット・ビノシュが出演しているのも、おそらくたまたまではないだろう。彼女は原子力発電所の事故に巻き込まれる、主人公の母親の役を演じているが、エメリッヒ版で批判されていたように、フランスも原子力開発に積極的な国のひとつである。
ここでは、日本の姿勢のみでなく、フランスへの批判も言外に暗示されているように見える。ジャン・レノ同様、損な役柄を引き受けた彼女の判断は評価したい。

さて、MUTOが、人間の生み出した核汚染の恐怖だとすれば、それを追い滅ぼそうとするゴジラとは何の象徴であるのか。
「怪獣王ゴジラは人類の味方か!?」と作中でメディアが表現したように、たしかに人類の脅威であったMUTOを殲滅しようとするところは、大怪獣ガメラのように「人類の味方」だと言える。だがゴジラ出現時に、津波が発生し、大波が人々を襲ったシーンを思い返すと、そうとばかりはいえないことが分かる。
ここで思い起こされるのは、やはり「東日本大震災」であろう。津波が海沿いの町や村に襲い掛かり、人や家や車を絶大な力で飲み込んでいく映像は、もちろんアメリカでもショッキングなものとして連日報道され映像が流されていた。
この震災被害によって、世界から多くの援助や義援金が集まったように、多くの国から同情の念を寄せられたことは言うまでも無い。
だが、その後の原発事故と、その原因をめぐる報道によって、同情一辺倒の論調に翳りが生まれた。地震や津波は天変地異なので、人間の力ではどうしようもないけれども、原発の事故というのは、ちょっと話が違わないか?という考え方だ。
自然災害は、甚大な被害を与えたとしても、それが恒常的に続くことはないが、原発の深刻な事故となると、広く海洋や土地を長期間汚染し、住民や野生生物などの健康に大きなリスクを与える。
つまり、今回の災害はふたつに分けられる。ひとつは自然災害、もうひとつは人災。そのふたつは根本的に異なるという理解である。これを「ゴジラ」と「MUTO」という、ふたつの怪獣によって象徴したということだろう。
そして、ゴジラがMUTOを付け狙うのは、人間の生み出した汚染を中和しようとする、畏怖すべき自然の力の戦いだということになる。
さらに、MUTOがオスとメスに分かれており、オスが原子力発電所で生まれ、メスが核廃棄物処理施設で生まれたのを見ると、原子力発電における汚染の問題というのを、非常に明確に指摘していることが分かる。
核廃棄物処理施設が、日本でなく、過去に928回もの大規模核実験が繰り返されたネヴァダにあったというのは、核の汚染が日本だけの罪でない、アメリカにもあるということを示す、バランスのとれた設定だ。
もちろんこのような描写は、東宝第一作の『ゴジラ』とはいささか異なる。「ゴジラは水爆そのもの」というセリフがあるように、ゴジラこそが核の象徴であったからである。
だが同時に、ゴジラは有史以前の古生物だとする設定もあった。志村喬が演じた古生物学者・山根博士によると、核実験によってゴジラは生活環境を奪われ、人間の生活圏に現れたのだという。だから、人間がゴジラを滅ぼすことにためらう部分もあるし、芹沢博士と対峙するクライマックスが悲劇的に見えるのだろう。
本作では、できるだけゴジラにポジティヴな面を残し、MUTOにネガティヴな面を背負わせている。この再定義によって、作品自体は東宝第一作の『ゴジラ』の印象に近く、帳尻を合わせていることになる。

オープニングは、実際の米軍による洋上の核実験映像を、ゴジラの姿を挿入したフェイク映像と並べて見せていくモンタージュ・シーンだ。スタッフのクレジットは、隠蔽を意味する黒塗りによって消されていく。
ゴジラの背びれが海中から現れるところで核爆発が起こり、画面はホワイトアウトし、チリのようなものが舞いながらタイトルが表示される。明らかに、核爆発後の放射能の影響についての描写だ。
東宝第一作の『ゴジラ』の発想の基となった、「第五福竜丸事件」では、核実験の直後に多量の灰が降ったことが確認されている。これは爆散したサンゴの灰が有毒物質とともに飛散したものだという見方がある。タイトルシーンは、おそらくそれを映像化したものだろう。
タイトルにこれが被さるということは、東宝第一作の『ゴジラ』へのリスペクトとともに、核汚染が本作の重要な要素になっていることが分かる。

ジャンジラ原発に隠されていた怪獣が、じつはゴジラではなかったということで、観客は不意を突かれる。
ここがうまいと感じるのは、観客がおそらく最も見たいだろうゴジラへの期待を一度味わわせておいて裏切るという点だ。
プレゼントの箱を開ける瞬間が一番ワクワクするように、怪獣が「来るぞ、来るぞ」と期待させる瞬間が最も観客を楽しませられる部分だということを、作り手側は知っている。ちなみに、ギャレス・エドワーズの最も評価しているという映画のひとつがスピルバーグの『ジョーズ』であり、そのスピルバーグは、『ジョーズ』のサスペンスフルな展開を、『ゴジラ』演出を下敷きにしているというつながりがある。
一部の観客は、用意されたプレゼントの中身が違う(ゴジラではない)ということに、ある程度の失望を覚えるかもしれない。
しかしそのことも十分に計算されていることが分かるのは、その後ハワイに舞台を移してのち、MUTO再出現後に連続して、ゴジラが突如現れるという展開だ。一度裏切った期待を、今度は不意にいきなり登場することで挽回してくれる。それはあたかも、誕生日を忘れたかに見せかけて、ひとり寂しく帰宅したら、大勢の友達がこっそり待っていて、「ハッピーバースデー!」と歓待するサプライズパーティーのようであり、いかにもアメリカ的接待だと思わせる。
だがなんと、ここではゴジラとMUTOの初対決の展開をほとんど見せず、劇中のTV画面でなんとなく確認できるだけにとどめている。
怪獣アクションがあまりにも少ないのではないかと思われるかもしれないが、クライマックスに用意されている対決シーンを含め、全体を通して見たときに、アメリカ映画の活劇としては、適当な分量であるとも思う。
香港のカンフー映画なんかと比べればよく分かるが、そもそもアメリカの観客は、そのような長々としたアクションシーンを嫌う傾向にあるようだ。それは今回の対決を終了させる、ふたつのフィニッシュの鮮やかさを見ても理解することが出来る。個人的にも、この淡白さやアクションの短さというのは緊迫感を高めていて、アメリカ映画として効果的だったように思う。

今回のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA ゴジラ』は、渡辺謙演じる「芹沢博士」が、日本風に「ゴジラ」と発音し、アーロン・テイラー=ジョンソンが演じる、アメリカ人の主人公、フォード・ブロディ大尉は、その言葉に対して「モンスターだ」と感想を漏らす。
渡辺謙の日本風発音は、現場での彼の発案によるものだといわれるが、これはまさしく、日本の「ゴジラ」と「King of The Monsters」という、ゴジラという存在の日米の認識の違いというのを、作中ではっきり明示しているように感じられる。つまり本作では、東宝作品としての「ゴジラ」を研究し、その差異に対して自覚的に、作品に取り組んでいるということが分かるのである。
本作の邦題、『GODZILLA ゴジラ』は、アメリカ的な視点のみを与えられたエメリッヒ版の『GODZILLA』ではなく、日米の感覚をミックスしていることを表す意味で、正しい表現であると思う。

そのような「核への恐怖」を象徴するのが、新しく創造された怪獣、 M.U.T.O.(Massive Unidentified Terrestrial Organism:巨大未確認地球生命体 ムートー) である。
最近のアメリカ映画のクリーチャーのデザインを複合したイメージのように感じ、オリジナリティはそれほど感じないが、ちょっと愛らしい頭部と、下半身の気持ち悪さが同居したような姿は、カメラの様々な角度によって変化がついて、それなりに面白い。難点は、その複雑さが観客にしっかりとした印象を与えなかったことだろう。それなりに魅力はあるものの、東宝シリーズの人気怪獣ほどにはソリッドなものではなく、定番の怪獣になるような気はしない。
本作の主人公の子供時代、部屋に貼られていた怪獣対決映画のポスターによって、この映画がゴジラ単体のディザスター・ムーヴィーでなく、怪獣バウトものだということが、さりげなく示されている。
日本では一ジャンルとして確立されているものだが、アメリカの一般の観客は、こういうものに全く慣れていない。
アメリカのオタクでも、日本の怪獣映画に慣れ親しんでいる者は限られている。『パシフィック・リム』でも巨大ロボと怪獣の対決を目にしているとしても、これから始まるような怪獣同士の無秩序な「どつき合い」を初めて体験するアメリカの観客がほとんどだろうと思うと、彼らの反応が楽しみになってくる。ちなみに、アメリカの複数の劇場では、大盛り上がりで何度も拍手が起こっていたらしい。

今から22年前、アメリカの映画会社トライスター・ピクチャーズが、ハリウッド版ゴジラを製作した。ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』(1998年)だ。興行面での成功を収め、モンスター映画としては肯定的にとらえる声がある一方で、ゴジラのデザインや、その最期をめぐる当時の評価は決して芳しいものではなかった。
【写真】渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士
その後16年の月日を経て作られた新たなハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』(2014年)が、6月20日にフジテレビ系で地上波放送される。
製作を務めたのは、『バットマン・ビギンズ』(2005年)や『スーパーマン リターンズ』(2006年)で、21世紀のスクリーンにバットマンとスーパーマンを甦らせ、『パシフィック・リム』(2013年)では、日本の巨大ロボットアニメを大作スケールの実写でやってのけるなど、意欲的な作品をつぎつぎと世に送り出したアメリカの映画会社レジェンダリー・ピクチャーズ。そのレジェンダリー・ピクチャーズが東宝と提携し、作り出したのがギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』である。しかもレジェンダリー・ピクチャーズには、キングコングやゴジラが同じ世界観を共有する“モンスターバース”というクロスオーバー・プロジェクトの構想があり、本作はその記念すべき第1作という扱いだった。
ギャレス・エドワーズ監督は『モンスターズ/地球外生命体』(2010年)で、低予算でも鑑賞に堪えうるパニック映画を撮って、多くの映画賞を獲得していた。このインディペンデント映画のヒットを評価され、彼はゴジラ映画のプロジェクトに招かれることになる。
ゴジラのデザインは、ややマッシブながらも東宝映画版に沿ったシルエットで、その出自も核実験によって目覚めた太古の巨大生物というオリジナルに準じたものだった。渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士のネーミングは、東宝の『ゴジラ』(1954年)の登場人物・芹沢大助と、監督の本多猪四郎にリスペクトを捧げたもの。
劇中で渡辺演じる芹沢博士が、巨大怪獣の名を日本流の発音で「ゴジラ」と初めて口にするシーンは、アメリカのワールドプレミア上映で万雷の拍手を浴びたほどだ(アメリカ流の発音では本来「ガッズィーラ」となる)。物語の中心となるブロディ一家の家族愛をメインに、アメリカ人が感情移入しやすいドラマの軸を通しつつ、世界中のゴジラファンへの目配せを欠かさないギャレス監督の演出ぶりは、日本のみならず海外の観客からも好意的に迎えられ、全世界での興行収入530億のヒットを記録した。本作の大成功により、レジェンダリー・ピクチャーズは当初の構想通り、モンスターバースのシリーズ化を本格的に動かすことになる。
『GODZILLA ゴジラ』が日本国内でも興行的な成功を収めた2年後、東宝も庵野秀明を総監督に迎えて『シン・ゴジラ』(2016年)を製作・公開した。『シン・ゴジラ』は政府が初めて遭遇した巨大不明生物(ゴジラ)にどう対処してゆくかを通して、政治的駆け引きとミリタリー色の濃いドラマが展開されたが、『GODZILLA ゴジラ』が日本のドル箱路線だった平成ゴジラシリーズ(1989年~1995年)のような、ゴジラと敵怪獣の市街地バトルを山場にした作劇だったのを思うと、ゴジラ映画へのアプローチ方法が日本とアメリカで入れ替わったかのようで面白い。
『シン・ゴジラ』では、政府が巨大不明生物特設災害対策本部という公的な専門部署を設置していたが、『GODZILLA ゴジラ』には、世界各国の巨大生物を研究調査する秘密機関モナークが登場し、これがモンスターバースを繋ぐ存在として大きく関わっている。芹沢博士はモナークの生物科学者という設定だ。モンスターバース第2作にあたる『キングコング:髑髏島の巨神』(2017年)は、モナークの地質学者ランダが、巨大生物の存在を確かめるべく髑髏島への調査隊を編成するのが物語の発端で、第3作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年)は芹沢博士の再登場とともに、モナークの科学者夫妻が重要な役割を演じる。
4作目『GODZILLA VS. KONG(原題)』は、新型コロナウイルスの影響で、公開予定が2020年11月から2021年5月に繰り下げられたが、果たしてどのような形でモナークが関わってくるのか? 置いてきぼりを食わないように、まずはシリーズ1作目『GODZILLA ゴジラ』と、2作目『キングコング:髑髏島の巨神』を順を追ってチェックしておこう。

投下された核爆弾は、ゴジラに致命傷を与えることができず、またしてもゴジラに力を与えることになってしまった。
芹沢博士は、核兵器に負けず、海に帰って行くゴジラの後ろ姿を見送りながら笑顔を見せていた。苦しんで死んだ父親の無念をゴジラに重ね合わせ、立ち上がる姿に救いを見出したのだろう。
そこに希望を見出したのは芹沢博士ばかりではない。多くの傷ついた市民達も、ゴジラが歩き、咆哮する様子に励まされている。
日本では東日本大震災があったが、アメリカも911の悲劇や、ハリケーン・カトリーナなど、様々な被害に直面している。
ゴジラが元気に甦る本作のラストシーンは、そのような悲しみに抗う力を与えようとしていて、素晴らしいものになっている。

だが本作の『GODZILLA ゴジラ』は、そのような深刻なテーマばかりで固められているわけでもない。
MUTOを絶命させた、ゴジラの新必殺技、口移しディープキス放射熱線のえげつなさは、東宝がかつて試したゴジラの名場面、水平飛行飛び蹴りや、勝利の「シェー」のポーズなどと同様、ゴジラ映画に新しく伝説を作ろうという創意を感じ、作り手のゴジラへの多面的な理解に驚かされるのである。

ギャレス・エドワーズ監督自身が選考したという、「IMAX ゴジラ ファンアート・コンテスト」で受賞したポスター作品を見て欲しい。
これは、ジャンジラ原発から太平洋に拡散した汚染物質が、ゴジラのようなかたちをとって、アメリカを襲っているという風刺的な図である。
このようなポスターが評価を受けていることを見ても、日本から大量に排出された汚染水が迫って来るという不安というのは、一般的なアメリカ人にとっての、正直で率直な感覚であることが分かる。